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2010年「ゆるゆる英夫ちゃん」年頭メッセージ

棒一本、タオル一枚が正しく持てないで、本当に幸せ?
閉塞感の深まる時代を力強く生きる"知恵と術"を考える(高岡英夫・談)

地球規模の危機や経済の行き詰まりは、余計なモノを作り過ぎる現代文明の根本的な原理の過ちに由来している

皆さん明けましておめでとうございます。

閉塞感の深まる世の中をどうやって生きていったら良いか、誰しも考える年の初めだと思います。かねがね語ってきたように私は世の中のあり方について次のような確固たる考えを持っております。

それは「先進国を中心にモノが有り余るほどある、つまり不要なモノまで造られ売買されている」、「温暖化など地球規模の危機や経済の行き詰まりは、余計なモノを作り過ぎる現代文明の根本的な原理の過ちに由来している」ということです。この状況を抜本的に打破するには、人類約68億人全員に公平に一つ一つ与えられているこの身体を、最高、最大、最重要な資源として活かし切ること以外に、方法はないと考えています。

これは、一人一人に必ず不可分の資源が、誰にも奪うことのできない形で与えられているという意味でも、また精神に直結するという点で他にはない資産という意味でも、必ず一人一人に直結する“幸福”を与えてくれるという、確固たる性質を持っているという考え方に、依拠しています。

私どもが身体を通した人間開発、研究、その指導法の考案という努力を重ねてきた背景には、結局こうした人類一人一人に与えられた身体という資産を活かし切ることが、現代文明の根本的な過ちを正し、そして文明の在り方を改革していくための思想と方法を提供することになるとの、考えがあるからなのです。

こう語ると、たいへん難しい高邁な思想のように聞こえるかもしれませんが、じつはその中身とは自分の身体を扱うという意味で、じつに身近で、手近で、肌に触れ、手に取って楽しめる、極めつけのわかり易さを持ったものなのです。

そのことの具体的な証しとして、今年の年初に最も早く開催される集中講座である「精密肘抜き&膝抜き法初級」について、その中身の身近さ、手近さ、肌に触れる面白さというものを、語ってみたいと思います。

「肘抜き」、「膝抜き」…、江戸時代人は現代の我々からすると考えも及ばないような身体使いを行っていた

「精密肘抜き&膝抜き法」とは、耳慣れない言葉だなと思っている方もいらっしゃるでしょうから、少し丁寧に語り始めたいと思います。

皆さんは、肘のスナップという言葉を聞いたことがありますよね。野球のピッチングやテニスのスマッシュを代表に、腕振りの勢いを増すために肘関節を中心に前腕を急速に伸展させる、そういう身体使いを差しているわけですが、じつはこの肘のスナップにあたる身体使いは、現代人特有の身体使いであるということが、私の研究によって分かってきているのです。

ですから、この肘のスナップは、キーボードを打ったり、本をめくったり、字を書いたり、テーブルを拭いたり、風呂桶を洗い磨いたり、クリーナーで床を掃除したり、包丁でモノを切ったり、食器を洗ったり、タオルを絞ったり、果てはタオルで身体を洗ったりする動作にも、全て使われているわけです。

その肘のスナップが、もし現代人特有の身体使いだとしたら、例えば私たちの祖先である江戸時代の人々は一体どのような肘の使い方をしていたかという、素朴な疑問が浮かんできますよね。

じつは江戸時代人の、その肘のスナップにあらざる肘の使い方こそ、私の概念でいうところの「肘抜き」というものなのです。

この一様の絵を見てください。これは江戸時代の浮世絵でうなぎ職人の包丁さばきの姿を描いた浮世絵です。これを一目ご覧になって、「えっ」と思われるところがおありでしょう。それはうなぎを押さえている左の肘が伸展し切っていること、それから腕全体に脱力していて、しかも肩関節が上方に抜け出してしまっていることです。



江戸時代の浮世絵でうなぎ職人の包丁さばきの姿を描いた浮世絵

江戸時代のうなぎ職人の浮世絵



現代人がモノを切るために左手でその材料を押さえるときには、必ずといっていいほど肘のスナップを使うために左肘は屈曲して肩は下っており、しかも力が入っていることはおわかりでしょう。モノを押さえている左肘と、包丁を持っている右肘は両方とも屈曲していて、左肘はモノを押さえ込むために肘を中心に力を発揮して、一方、右肘は材料を切断する力を発揮するために屈曲しているのです。そのようなことから、江戸時代の職人の腕や肩の状態は、極めて現代人と異質だということがおわかりになるかと思います。

それでは、江戸時代のうなぎ職人のこの右腕はどのように使われているかというと、肘を中心に切断する力を発揮するのではなくて、肘周りから腕全体を徹底的に脱力して、肩関節のさらに奥にある肋骨をズルズルにゆるめて、その部分で切られようとする食材の抵抗を吸収するように包丁を滑らかに引き動かすことによって食材を切る、という現代の我々からすると考えも及ばないような身体使いを行っていたのです。

この身体使いは、当時世界最高峰の水準にまで達していた日本武術の身体使いと全く同質のものであり、その作業能力の正確なこと、スピーディーなこと、疲労しにくいこと、つまり持久力の高いこと、そして身体的なだけではなく、精神的にも広く深いゆとりが生まれること、さらに認識力に奥行きや鋭さを与えること等々、身心に強大ともいえる優越性を与えるものだということが、分かっているのです。

今回はあまり長い文章になってもいけないので、全く同じようなことが膝についても言えるのですが、それは省略させていただくことをお許しください。

あらゆる文化領域における道具と手の接触全てにわたる根幹的な能力が、わずか1~2時間前後の経験で想像を絶するほど劇的に変化、向上する

さてこの「肘抜き」、「膝抜き」について、その講座「精密肘抜き&膝抜き法初級」では理論以上に実際の実体験をもって、皆さんに体で「肘抜き」がどれほど現代人の肘のスナップによる身体使いと異なるものであるか、そして「膝抜き」という身体使いがどれほどに見事に快適で、高いパフォーマンスをもたらしてくれるものであるか、ということをまさに身近に、手近に、肌に触れ合うように、体験していただくことにしています。

実際にその講座の中で皆さんには、いかに現代人が単に一本の短い棒を手のひらで握るということ自体についても「全く出来ていない」、つまり、パフォーマンスとして信じられないくらい低いレベルにあるかということを、劇的に体感していただきます。

それは、初めに棒を持つという動作を皆で確認した上で、「肘抜き」を進めるトレーニングメソッドを皆で学び進めた後に、もう一度同じ棒を同じように握ってもらうことで、そのメソッドのいわば使用前、使用後における劇的な身体使いの変化が想像を越える体感の違い(それは観察する周りにいる人々からも如実な違いとして見て取れるものです)として実体験していただけるわけです。

じつはそれは日常生活における全ての道具との接触、例えば衣類を着たり、ボタンを止めたりするときの衣類と手指の接触、食事をするときの箸やナイフやフォーク等と手の接触、皿やお茶碗等と手の接触、紐を結わえたりするときの手の接触、さらには風呂で体を洗うときのタオルと手の接触、顔を洗い、水やお湯をすくうときの液体と手の接触、石けんで泡立てるときの石けんと手の接触、あるいは泡と手の接触を含んだあらゆる生活・生産労働における手とモノとの接触、そしてさらにはスポーツや武道や音楽演奏や書画工作など様々な文化領域における、各種目内の道具と手の接触全てにわたる根幹的な能力なのです。

その根幹的な能力が、じつはこの「肘抜き」のトレーニングメソッドをわずか1~2時間前後経験することで、想像を絶するほど劇的に変化、向上してしまうのです。このことはたいへん意義深いことだと、私は考えています。

この劇的に変わった手をもって、講座の参加者同士による握手の使用前、使用後もリサーチしたことがあります。皆さんがどうお互いに感想を述べられたかというと、「使用後に握手したときはなんて気持ちいいんだろう。なんてしっくりと、ピタッと繋がる握手なんだろう。気持ちや心まで通じ合えるようだ。すごく信頼感が持てる。手の一体感が、体だけではなくて心の一体感にまで通じる気がする」というようなものでした。

じつは先ほども申し上げたように、この江戸人の得意とした身体使いである「肘抜き」、「膝抜き」というものは、単に身体のパフォーマンス全体に渡る問題だけではなく、精神の領域、認識作用の領域にまでも大きな影響を及ぼすものですから、こうした握手の体験は、本当にそのわずかな一面を垣間見たものに過ぎないとも言えるわけです。

この「肘抜き」、「膝抜き」を体験し、それを日々の生活の中で実践し、利用しているビジネスマンや家庭の主婦に共通する感想があります。

その感想をまとめると大きく2つあるのですが、まず第1は、どんな作業も楽になったということ。この作業が楽になったということには、さらに2つの意味があり、1つは難しかったことが簡単にできるようになったという意味で「楽になった」ということ。もう1つは作業が疲れず負担にならなくなったという意味で楽になったということです。

そして第2は、精神的に気持ちが明るくなったということ。こちらもさらに分けると2つの意味があって、1つはさきほどの「何をやるのも楽になった」ということが精神的なことにまでに影響し、気持ちが明るくなったということ。そしてもう一つは、前者とはまた違って、このような身体使いをできること自体が、本質的な意味でこの自分の内側からの「精神の拘束=心の縛り」というものを取り去ってくれた結果、何の作業もしていないとき、あるいは知的な作業をしているときにでも、以前に比べて気持ちが明るくなったということです。

脊椎をゆるゆるにゆるめ、センターに身をまかせて、膝抜き&肘抜きを行なえばエキスパートにもできない画期的なパフォーマンスが可能となる

次に「肘抜き」、「膝抜き」を同時に達成した状態での画期的なパフォーマンスについてのお話をしましょう。これは今回の講座の指導者である私の体験談、しかもちょうど現場を皆さんに見ていただいている事例が良いと思うので、私自身が集中講座合宿で皆さんと一緒に経験した事例を語りたいと思います。

これは6年程前の信州での野沢温泉で私どもの集中講座合宿の中心宿泊ホテルである「ハウス・サンアントン」でのお話です。私の知人のイタリアンシェフが、私にいつもお世話になっているということで、講座参加者の皆さんへの応援に使ってくださいと、パルマ産の骨付きの生ハムを丸々1本を送ってくださったのです。長さが60~70cmくらい、高さは30cmくらいある豚の骨付きのモモ肉1本です。

それを均一の薄切りにこそげ切るのは、訓練されたプロでもそう易しい仕事ではありません。専用の包丁を使って、しかも包丁に付く脂肪分を1回ごとに拭き取るなどして、相当慎重にやったとしても、よほどの名手でない限り、10数cmの長さに渡って薄く均一の厚さでハムをこそげ切ることを続けるのは、難しい作業なのです。

ご多分に漏れず、生ハムを切る際にホテルのスタッフが汗をかきかき、たいへんな苦労をしてしまいました。どうやってもせいぜい5cm程度にしかハムがこそげ切れないわけです。したがって、ボソボソとして、厚さも不均一で、長さも短いハムが何十片も皿に盛りつけられるような状況が続いたのですが、そこにヨーロッパ暮らしが20年を越え、生ハムをヨーロッパでしょっちゅう切っていたという生ハム切りのエキスパートの方が偶然居合わせたのです。途中でその方が「私がやるよ」ということで代わってやってくださいました。

しかし、その包丁というものが刃のベコベコに曲がったどこの家庭にでもあるような文化包丁だったこともあり、その生ハム切りのエキスパートという方も包丁を使う度にくり返し脂肪を拭き取りながら続けるものの、刃が滑ってしまって上を空滑りして薄く短く切れたり、今度は滑らないように深く入れると深くなり過ぎてしまったり、さらに厚さを調整しようとすると今度はまた肉の外へ刃が浮き出てしまうというような状況でした。ホテルのスタッフよりは少しは長く切れたのですが、どうしてもうまくいかないのです。

そして「これはやっぱり包丁が悪すぎてダメだよ、僕でも。専門の包丁があればいいんだけどね」と言って、あきらめて部屋に戻っていってしまわれました。

しかし、せっかくいただいた生ハムがまだ厖大に残っていたわけですし、食べたくて待っている合宿の参加者も何十人もいたので、「では、私がやってみましょうか」ということで、私が包丁を取ってみたのです。

正直言って、私もこのような生ハムを切るのは全く生まれて初めてのことだったので、一体どうやって切ったら良いか検討もつきませんでした。しかし、驚くべきは、直後の私のパフォーマンスでした。私はどう切ったらよいかなど何も考えずに地球の中心を感じて、立ち上がるセンターに身も心もまかせて、センターまわりの脊椎をゆるゆるにゆるめながら、体の支えである脚は膝抜きをし、一方包丁を持っている腕は肘抜きをして、とにかく生ハムに包丁の刃を当てて動かしてみたのです。

すると、スルスルスル~と刃が動いていって、全く薄く均一に、信じられないような話しですが、肉の部分の端から端まで約30~40cmくらいの長さのハムがキレイにこそぎ切れてしまったのです。そのままでは長すぎるので3つほどに折り畳みながら、初めの一枚を皿に置いたが最期、その後は堰を切ったようにサッササッサと全く一息に次々にハムを何枚、何十枚と切り続けていってしまったのです。

その間、ただの一度も布で包丁の脂肪を拭くことはありませんでした。包丁に付く脂肪など全く邪魔ではなく、何を考えることも悩むことも一切なく勝手に包丁がスイスイスイスイと生ハムの上を動いていって、瞬く間に10皿ほどのハムをこそぎ切って、そこに居合わせたお客様全員に十分なハムをお配りして、私はただただ楽しく、明るく、一切何の負担も疲れもなく作業を終えたのでした。言うまでもないことでしょうが、かくも上手に切れたハムはその味も格別に美味しくなるものですから、皆さんの喜びはそれは大変なものでした。これはいまだにその場に居合わせた参加者の方々から“ひとつ話”のように語られている話です。皆さん、この話を聞いてどうように感じられましたか。

フリーシステムに則れば、身体は豊穣にして深遠な快適感、充実感、生き甲斐にも成り得るほどの幸福感を与えてくれる

人間の身体というものは、脳の運用によって働くシステムなのですが、そのシステムには根本的に異なる2つのシステムがあるのです。その1つがいま私が体験した話として語っているものであり、私はそれを「フリーシステム」と名付けています。そしてもう1つの現代人の代表であるようなホテルのスタッフの方が所有していたようなシステムを「スティフシステム」(スティフは日本語で「拘束された」「固くこわばった」という意味)と名付けています。当然のことながら「肘抜き」、「膝抜き」はフリーシステムの代表例の2つであることはいうまでもありません。

人類68億人全員に与えられたこの身体という資産は、スティフシステムで動かしている限りは、愚にもつかないガラクタと言っては言い過ぎかもしれませんが、決して身体それ自体、あるいは身体を運用すること自体から、何にも勝るような楽しさ、快適さ、そして幸福感というものを私たちに与えてくれるようなものにはなり得ないことは、どなたにもご理解願えることだと思います。

そして一方、フリーシステムに則って身体を運用することができた途端、身体は豊穣にして深遠な快適感、充実感、生き甲斐にも成り得るほどの幸福感というものを与えてくれるのです。それは現代文明が、人に楽しみを与え、面白みを与え、快感を与え、その集積として幸福感を与えようと汲々と努力を重ねて作り出してきた様々な装置(道具や機械やシステム)、たとえば、自動車やテレビやオーディオ、ゲーム、パソコン、インターネット、スキューバーダイビング、映画等々が、自分の身体そのものに比べてどれほど優れた価値を自分にもたらしてくれる存在足り得るか、という根底的な批判に常にさらされることになる、つまりより明確に相対的な存在になるということを、意味しているのです。

その意味で、最近我が国の若い人たちが自動車を代表にモノ離れを始めている事実や、中年層でカーシェアリングなど物品の無駄な個人所有を止めようとする動きは、はなはだぜい弱ではありますが、一すじの光明を見出せることとして注目してよいものと考えています。

<了>

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